今年も我が家の紫陽花が咲いた。玄関先のその花は、ますます広がりを見せる。気にかければかける程、目に鮮やかに映る。今まで、目に留まらなかった街中の紫陽花にも色が付いた。私の住む街も色で溢れていたことに気が付く。何かで読んだことがある。目で物を見るためには、脳で考え捉えてから認識するのだと。
3年前には、咲かない紫陽花を心配して嘆いていたのに、今となつては、丈が伸びすぎ広がりすぎることを気にしている。形良く咲いている花を見るにつけ、どのように世話をしたら美しく見栄えするのか、調べてみたが、隣の芝は…なのだろうか。咲かなければ咲け‼と願い、咲いたら咲いたで、品よく美しく‼と願う。何かと似ている気がしてならない。今までになかったこの想いは、紫陽花についての親心の芽生えなのだろうか。それとも、欲の芽生えなのか。
紫陽花や藪を小庭の別座敷
芭蕉のように、あるがままのその姿を美しいと、少し離れたところから眺めてみることにしてみようか。
(「紫陽花③」 2019年6月30日 書き留めた文章より)